はみ出し日記

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『岡本太郎✖建築』展を見て

概要

川崎市岡本太郎美術館にて7月2日まで開催中の企画展

岡本太郎×建築』展を先日見てました。

その感想を含めて、今回の記事では赤瀬川原平磯崎新を中心に

1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博について書いています。 

 

戦後間もない大分県、ある一軒家にて隣の部屋をのぞき込む少年がいます。

彼の名は赤瀬川克彦。夜尿症がなかなか治らない気弱な少年でありました。

 視線の先には5つ年上の兄と語らう青年がおります。

彼の評判は耳にしていました。

付近の画材店を拠点にグループ「新世紀群」を創設したとか。

学業にも秀でていて学校での成績がとんでもなく良いのだとか。

赤瀬川にとっての磯崎は頭が良く、美術にも関心のある理想的な青年だったようです。 

 

腸炎の治療と伊勢湾台風を乗り越えた赤瀬川は 22歳なっていました。

先輩に呼び出され、東京で彼は前衛芸術集団ネオ・ダダの一員になり、

年一の読売アンデパンダン展(以下アンパン)に作品を出品するようになります。

更に本展を通じて知り合った高松次郎中西夏之と共にハイレッド・センターを結成。

様々な活動を行っていましたが、芸術で生計を立てるところまでは当然行きません。 

 片や一足早く上京した磯崎は東大の建築科に在籍していました。

学部を卒業した彼は、丹下健三の研究室へと進学します。

 

1964年ハイレッド・センター最後のパフォーマンスが、東京銀座で行われました。

この『首都圏清掃整理促進運動』においてメンバーは白衣に着替え、

舗道の植え込みやガードレール、タイルなどを雑巾などで清掃しました。

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 当時の東京は高速道路、新幹線の整備に加えて大規模な都市改造が行われています。

理由はもちろん東京オリンピック。傍から見れば珍妙かつ執念じみた掃除を通じ、

美化されていく街に対する違和感を赤瀬川は示したのでした。

加えて同年、千円札を模した自身の作品が違法ではないかとの裁判が始まります。

オリンピック一色の世論を尻目に、法を通じた国家との対決へと向かっていくのです。

 

対して磯崎の指導教官丹下は、オリンピックにてその名を一躍有名にしていました。

メインの会場の一つ「代々木国立競技場」の設計を任されたのです。

つり橋のように渡されたワイヤーを用い、天井を上から吊るすという独創的な設計は

 数度の改修工事を経た現在でも、当時の形のまま残されています。

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時は流れ1970年、赤瀬川は最高裁に出廷していました。

千円札裁判における最終上告の結論が、そこで発表される予定だったのです。

結果は棄却。6年に渡る裁判が有罪という形で決着しました。

 

この頃になると赤瀬川と共にアンパンに出品していた作家たちも、

ニューヨークへ渡ったり、作家活動を辞めたりと多様な道へと進んでいます。

しかし未だに強い反骨精神に満ち溢れていた一派は、

最後の抵抗として大阪万博に照準を定めていました。

 

安保闘争学生運動と共に闘ってきた彼らにとって万博はイデオロギーの塊であり、

米に追従することでベトナム戦争への加担を黙認してきた当時の日本政府を糾弾する

そんな意味でもかなりの反対運動が生まれたのです。

 

 さて丹下から独立した磯崎は大阪万博にてある作家の展示場構成を担当していました。

その作家とは「太陽の塔」をもって万博の顔となった岡本太郎です。

黒を基調とした構成は好評を博します。磯崎はこの時得た経験を活かし、

日本を代表するポストモダニズム建築家として名をはせることになります。 

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↑磯崎が構成した岡本太郎の展示室

 

(かなり恣意的なまとめ方をしたので当然ですが)

模型千円札の制作をめぐって国家の法と芸術を対決させた赤瀬川と、

岡本太郎と協働でイデオロギー装置とも揶揄された万博を完成させた磯崎。

大分の「新世紀群」にて同じ位置にあった二人が、五輪と万博、二つの国家プロジェクトをめぐり異なる立場となっていったことが分かるかと思います。

 

 

 五輪と万博をめぐる表と裏の芸術表現については、記録の面で大きな差があります。

代々木国立競技場や太陽の塔は現在でも見に行くことができますが、

反博作家の作品や活動については、写真すら残っていない事例がほとんどです。

半世紀前の出来事について、現在から遡る際公的な記録映像だけを追うとあたかも

「五輪や万博は誰もがもろ手を挙げて喜んだ」そんな認識になってしまいがちです。

 

2020年に開催される東京オリンピック。芸術の分野においても今後反対運動と

率先して採用される作家との間で軋轢が生まれるのではないかと思います。

恐らく大手のマスコミ等は扱わない反対派の作家たちが何を掲げ、訴えたのか。

それを公的記録に劣らず記憶し伝えていく必要性があるのではないかと感じました。

 

 

※付記※

万博の展示で岡本太郎に磯崎を紹介したのは読売新聞社文化部の海藤日出夫でした。

彼アンパンの発起人でもあり、前衛作家たちを応援していた人物でもあります。

会社員だった海藤はある意味中立にアンパンと万博に接したと言えるかもしれません。

 

彼以外にもアンパンに巣食う前衛作家たちを擁護・評価していた評論家等の人々が、

その後万博についてどのようなスタンスを取ることとなったのか。

当時の多様な人物関係を追うことは知識不足のため出来ませんでしたが、

美術手帳のバックナンバー等を確認すると、彼らの苦悩が分かるのかもと思います。

 

○尚、磯崎と赤瀬川は仲が険悪とかではないですし、磯崎自身ネオ・ダダにかなり深入りしていたようです。今回の記事は ”まあこういう見方もできるよね” ぐらいで読んでいただけるとありがたいです。