除染最前線:富岡町にて
去る3月24日(土)、一回分だけ余った青春18切符を使い切るべく福島へ行ってきました。(4回分は熱海周辺に行っていました。不思議な土地です。いずれ報告するかも)
2011年の東日本大震災とそれに伴う福島第一原発のメルトダウン、建屋の水素爆発。
テレビニュース、再現ドキュメンタリー、映画、新聞、Twitterで福島について様々な情報を7年間見続けてきました。
でも、やはり自分の目で見ておくべきだと思ったので行きました。目的地は富岡町。昨年4月に帰宅困難地域を解除されたばかりの場所であり、JR常磐線の終着点です。
○富岡町ってどこ?
「富岡町まで行くこと」だけ先に決めていた私は、時刻表以外にあまり下調べせずに出発しました。その結果いろいろと思い知ることになります。
まず遠い。
JR最寄り駅から目的の富岡駅まで終始18切符が使えるのは良いのですが、距離がかなりあります。四国基準で言えば高知の中村駅から徳島駅くらいの距離がありました。
結果朝4時半に起きて到着は10時。18切符を使わないと片道電車賃8000円近くかかります。普通に行くにはちょっと金と時間がかかりすぎる距離ですね。
それでも休日という事もあってか、一眼レフを携えたお兄さん、おじさんらが数人富岡駅で下車していました。
あとは放射線。今年のNHKで放送していた震災特集で同地から中継等行っていました。よってあまり気にせず行ったのですが、駅に着くといきなり線量計がありました。
単位はμSv/hと健康に影響を及ぼすとは考えられないほど低い値で、これを示す意味があるのか分かりません。特に気にする人もおらず一応やってます程度なのかも。
とはいえ2012年11月の調査では約9μSv/hと5日居れば通常一年で浴びる放射線量に到達するかなりの汚染地帯だったようです。(単純に乗算しただけなので内部被ばく等は考慮していません)
放射性降下物の半減期がどれくらいなのかは知りませんが、線量だけ見れば比べ物にならないほど低下しています。除染はかなり効果を出しているように思えました。
ただし最初にも述べた通り、富岡町は期間困難地域を解除されたばかりの土地であり町の北東部は未だに除染作業が完了していません。
こちらが現在の期間困難地域(2018年3月27日時点)
見てわかる通り第一原発に近い双葉町・大熊町はほぼ全域が帰還困難地域です。
JR常磐線の終点が富岡駅になっているのもこれが理由で、この区間は代行バスが出ているようでした。
こうした事情により北に位置する浪江町との間は立ち入りが依然禁止されています(一部例外有り:後述)。当該地域との境目にはパトカーが巡回している他、道によっては高いバリケード、監視員、監視カメラ等が設置されており、38度線のような状態でした。
○除染地域を歩く
まず富岡駅を降りて目に飛び込んできたのは駅の東側。海岸にかけての光景です。
見事に何もない。
津波の影響をかなり受けたようで、工事車両が盛り土をせっせと行っていました。
海まで歩いていこうとしたのですが、海岸線全域が工事中で立ち入り禁止。
一面コンクリートなので鳥もほとんどおらず、気味が悪いほど静かな場所でした。
詰まれたウレタンパック。除染に伴い剥がされた表土等が入っているとみられます。
付近にはこのパックを大量保存しているとみられる巨大なテントもありました。
このあたりで海岸線は諦め、期間困難地域との境界へと向かいます。
おそらく踏切があったとみられる場所。遮断機類は一切なく、線路の向こう側にはフェンスがあり、実質的に通行止めの状態です。この線路は富岡駅の北側にあるため、列車は通りません。 レールが真赤に錆びていました。
こんなところに献血カーが来ている!と思ったら
内部被ばくの検査カーでした。こんな車見たことない。誰も受診していませんでした。
道を歩いている人もほとんどおらず、とても静かです。
かつては原子力発電所について扱った博物館だったようです。現在は一般立ち入り禁止。中庭のタイルは除染目的か全面割られていました。
こちらはもう少し進んだ境界線近くの個人宅?です。
2015年のgoogleストリートビューと比較すると分かるんですが、15年時点では庭の半分ほどが砂地で覆われていました。除染で砂地が殆ど剥がされて、代わりに砂利が敷かれたようです。除染という行為自体、景観を破壊するという諸刃の剣なんだと気付かされる場所は他にも多々ありました。
除染や廃炉作業に必要な物資が膨大なためか、都市部や田舎では見られない規格外サイズのトラックも目にしました。こちらは40tの牽引トラックです。
そして廃墟も多い。田舎に潰れたパチンコ屋があるのは珍しい事じゃないんですが、気味が悪かったのは二枚目の店舗。
二階右側面にある縦開きの窓が開いているのが分かるでしょうか。経験則なんですが、窓が割れている廃墟はあっても、窓が「開いている」廃墟は珍しい。取るものも取らず逃げ出した6年前の様子が想起されて怖くなりました。
○「この先帰宅困難地域」
そして辿り着いた街の北東部。帰宅困難地域です。監視員より右側が立ち入り禁止地区。非常にあっさりした境界線です。
一方こちらは別の場所。監視カメラが設置され明らかに通行止めといった感じです。
スマホのカメラでは望遠が難しかったので写真はありませんが、境界線付近の建物は瓦がはがれたままだったり、屋根に穴が空いていたりと、震災の影響が今なおはっきりとみられるものが多くありました。
そして北へと続く国道6号線。常磐線の代行バスはこの道を取って北へと向かいますが、窓が閉められるタイプの自動車以外の通行が禁止されています。当然歩行者である自分も進めるのはここまで。ある種の「地の果て」です。
車載カメラによる動画を見ると、当該地域では途中下車できないようバリケードが無数に張り巡らされているようです。
○震災復興は成ったか
昨年4月に帰宅困難地域が解除された富岡町では、自宅へ戻る住人も一部いるようです。実際道を歩いていると、家の前で団欒する住人の方々がいらっしゃいましたし、地域のスポーツセンターでは野球をする男性グループも見かけました。
とはいえ依然空き家はかなり多く、長年の人口不足に伴い、野生動物による被害というかつては無かった問題も発生しているようです。長年の避難は地域コミュニティを深く傷つけてしまったように見えました。
また除染は終わったと言っても、町全体が復旧されたわけではないようです。
歩道橋の他、道路の陥没注意を呼び掛ける看板は各所で見られましたし各種店舗もほとんどが閉鎖したままです。神社など文化施設の復旧もかなり時間がかかるものとみられます。
こうして考えると、従来富岡町に住んでいた方々が富岡の再建に尽力するのと同時に、今後復興関連事業に携わる労働者の方々がこの町を経済的に支えていくことは容易に想像されます。全く立場の違う2種の人々が共に生活する町として今後、除染や廃炉完了までの数十年を過ごしていくことは復興というより明らかな町の変質です。
(駅のコンビニでの品ぞろえ、ラインナップに偏りが感じられる)
原発事故がもたらした福島の諸地域は決して事故前の状態には戻らないということを、肌で感じることとなりました。
と同時にこの地域の「当たり前」が非常に見慣れない、異常なものであったことも忘れないように書いておきたいと思います。
空き地に汚染土の入った袋が大量に置かれていたり、特定の地域に入ることが出来なかったり。テレビで見慣れている光景だったはずなんですが、実際に目にするとやはり異様です。とても異様です。やったわけではありませんが、(おそらく)道を歩いているだけでパトカーに乗せられるというのはとんでもない場所ですよ。帰宅困難地域付近では戦時下を部分的に体験してしまったようなショックを受けました。見たつもり、分かったつもりというのは恐ろしいですね。
あと非常に気になったことが一つ。
(汚染度を補完していると思われる白テントの建物、超でかい)
津波によって大量の死者を出し、未だに盛り土が終わらない海岸地域は最も人の寄り付かない場所でしょう。平坦且つ住民の反対が無い広大な土地という汚染土を一時保管するにはうってつけの場所だと思います。
しかしこの場所にもう一度津波が来たら汚染土が流出してとんでもないことになりますよね?
私は地質学者ではありませんが、先の熊本地震で大規模な揺れが2度繰り返し発生するという事例がありました。地震がどのような周期で発生するか完全には分からない以上、可能ならばもっと山奥に移動するのが得策のように思います。
(無論そんな金も時間も土地もないから一時保管施設として定めているのでしょうが)
以上富岡町の様子がとても衝撃的だったので、部分的ながら出来る範囲で文章にしておきました。
富岡での戦時下はまだ続いています。それだけは絶対に忘れてはいけないように思います。